震災から2年後の福島に行った話

2011年3月11日、当時小学5年生だった僕が揺れを感じたのは、授業中の家庭科室だったと思います。
不謹慎ながら、「避難訓練の本番だ!」と笑いながら先生について校庭まで避難しました。
帰宅してテレビを見ると流れてきたのは津波が町を飲み込んで行く様子。海をみたことも数えるほどしかなかった僕は、遠い場所での出来事としか感じられず、その後の自粛ムードに嫌気が差すほどでした。(今思えば考えが足りないことこの上ないですが。)

それから約2年後、僕にとって大きな出来事がありました。
「SEND to 2050プロジェクト 全国中学校生徒会サミット」への招待です。
どういった縁だったのかは定かでは無いですが、当時生徒会役員をしていた僕が参加させてもらうことになりました。

会場である福島市内へは、伊丹空港から仙台空港まで飛行機で行き、そこからはバスでの移動でしたが、仙台空港周辺で遭遇した震災の爪痕が印象深かったです。特に、水量に対して明らかに深く広い河川があり、津波の河川遡上の痕跡をまざまざと見せつけられました。


このサミットでは、会場である福島に日本全国の中学校の生徒会メンバーが集まり、様々なテーマでのディスカッションやレクリエーション、講演会への参加や農園でのフィールドワーク、テーマに沿ったチームでのプレゼンなどを4泊5日の日程で行ないました。
今でも繋がりのある友人との出会いや貴重な体験、経験があり、本当に参加して良かったと思っています。

その中でも特に覚えているのが、移動中のバスでの会話です。
当時福島市内の中学校に通っていた同じグループのメンバーに、震災後のことや原発関連のことを教えてもらっているときでした。

原発の事故があって、子どもたちが外で遊ぶこともなくなった。被曝量の計測をしなければならず、どんどん町内の空気が悪くなっていった。」

そう答えてくれた彼がそのあとこちらをまっすぐ見ながら言った言葉が最も強く印象に残っている言葉です。

放射線の汚染は環境だけじゃなくて、人の心も汚染していった。地震は天災だから仕方がないけど、原発に関してはもうちょっと何とかしてほしかったと思ってる。」

話をしながらメモを取っていましたが、この部分だけは手が震えてちゃんと書けませんでした。
図々しく当時のことを根掘り葉掘り聞いた僕に、色々と話してくれた彼には本当に感謝しています。



特にこれといったまとめはありませんが、長々と読んでいただきありがとうございました。
良ければ今日、どこかのタイミングで良いので、震災で亡くなられた方々へ黙祷を捧げていただけるとありがたいです。


また、これは非常に大切な考え方だと思っているのですが、東日本大震災があった今日も、誕生日や何かの記念日など、誰かにとってはお祝いの日であるかもしれません。痛ましい災害のあった日ではありますが、だからこそそういったことをより祝うべき日であるとも思います。(これは親族や知り合い、自分自身が実際に体験していないから言えることかもしれませんが。)


震災で亡くなられた方々のご冥福をお祈りすると共に、ご遺族の皆様にはお悔やみを申し上げます。

また、今日が何かの記念日だという皆さん、本当におめでとうございます!